昭和40年9月13日 朝の御理解
私共の、心が神様に向こうて、その、向こうていく向かい方なんですけれども、「んん」、どういうような信心をさしてもらって、神様に近づいていくというか、向こうていくというか、色々あると思うですね。ま、例えていうなら、強引に神様に近づいて行こうとする。まあ、山伏的な修行とでもいうですかね。それこそ、荒行ですね。それから神様に近づく一つの手立てにしておるといったような人達もある訳です。それはもう、人のまねの出来んような荒行をさせてもろうて、神様へ、近づいていこうとする。「ね」、また、祈願を込めると。そしてまた、なんと申しますかね、えー、天地の道理というか、んー、を、研究するというんですね。ま、天地の法則とか、真理の追究とかと、いうようなことからです、ま、いうなら、六法全書の勉強をしてですたい。そして、どういうようなあり方になれば、あのう、法に引っかからないと。もう、ギリギリのところまで悪い事しとってもですね、法にかからんような生き方をもってその、要領よくやっているという人達が世の中にあるように、信心の世界にもやはりそれが、あるんですよ。例えばあの、「おおー」。まじない的なもので、この、おかげを頂こうとしたりね。また、そういうことがあるんですね。一つの、まあ、呪い的な信心とでもいうんですかねえ。兎に角、真言密教なんかにまだそういう、一つその、しみずとか、死術とかといったようなものがあるんですね。ま、呪文を唱えるといったような。これなんかは、ある程度その、道理を勉強する。「ね」。いわばその、六法全書の、体得ですよ。ですから、そのう、たちの悪い弁護士なんかは、悪いこともやるわけなんですね。そして、法にかからんようにという、ギリギリの線のところまで、その、やって行くといったような、ま、行き方。または、要領一つで、神様へ近付いて行こうとする、行き方もありますですね。なんか知らんけれども、神様の前へ沢山お供えをさせてもろうてから、それによってから、この、おかげを頂いていこうという。ま、それもあるんですよ。私共の場合、それのどの場合でもですね、人間生身を持っていることでございますからですたい。「ね」。ほんとに、神様の基幹に叶わない、えー、もう、ほんとに、平身低頭、お詫びさせて頂かねばならないようなことも、あるんです。けども、そこにはそこにですね、もう、神様の、ここまでは、その法にかからないといったような、それを覚えておかんと出来ませんけれども、これは、何と言うても、私共、お身に頂くものが、大体、ま、私がお勧めする信心じゃないのですけれども、やはり、知っておかなければならない。「ね」。神様もその辺は、ま、いうならば、大目に見て、その辺まではお許しくださるといったような辺が、やっぱりあるんですけれどもね。けども、私共が、どこまでも一つ、教祖の神様のご信心に神ならわせて頂いて、それを、「真の信心」とこう仰るですから。「ね」、ですから、只今申しましたような信心は、私は、真の信心とは言えないと思うです。「ね」。要領で神様に近づいて行く。強引にその、いわば神様に近づいていくと。というんではなくて、もう、神様のほうから、寄り添うて来て下さるといったような、信心を私は、真の信心とこう私は、思うですね。そんなら、その、真の信心を、お互いが目指させて頂いても、なかなか出来んのでございますけれども、もう、教祖の神様が、辿られたところの信心というものを、私共が少しでも、身に付けさせて頂いて、いわゆる、正しい信心から、正しい喜びを受けさせてもらい、その、喜びにおかげが、もう、頼まんでも、願わんでも、伴うて来る。神様のほうから寄り添うてきてくださる。あの氏子はと、例えば、神様が、まあ、認めて下されるような信心。「神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子は少ない」と、「ね」。例えていうならば、あー、神様の働きは、間違いないものだということを知ることは、やっぱ、要領から入っていく信心でも、神様の働きを知ることが出来ます。強引な、いわゆる荒修行でもさしてもろうておる、山伏的な修行から入らしてもろうて、おかげを受けていって、神様ちゃ、偉大な力を持ってござるがと、一生懸命祈る人が死ぬるようなことでも出来る。一生懸命、この木よ枯れろ、この木よ枯れろと言うて願えば、この木が例えば、枯れるといったような、働きといったものが、あるんですやはり。「ね」。一念をそこへ、もって行くような信心もあるんです。「ね」。例えていうなら、よくあのう、英彦山あたりで、年に一回かなんか、火ぶせりの行かなんか言ったようなものが、あるですねえ。火をこう焚いてから、火の道をその、呪文を唱えながら歩いていくというわけなんですねえ。火は、熱いものに決っておる。触ればやけどをするものに決っておる。けど、もう、強引にですね、火の力を、いわば、呪文なら呪文。荒行なら荒行によってその、伏せるんですね。火の力というものを。そして、その上を、平気で渡るといったような、ま、人から見れば、ほんにびっくりするといったような、あー、その神様を、そこに表していくことも出来るんです。けども、私共は、思うのに、熱いものは熱い冷たいものは冷たい。「ね」。それをそういうような、人間、人間らしゅうというか、そこんところをその、まあ、素直にそう、いわば、病気をする。叩かれれば痛い。「ね」。様々な難儀に会えばです、やはり術ないと。けども、術ないなら、術ない中にです、例えば、私共は、そのう、おかげの頂いていけれる、道。教祖の神様が、お辿りになり、まあ、教えてくださった道は、そういうような道である。しかもそれが、どこまでも通うていき、しかもそれは、天地に貫通する。天地に通うていくその道が、付いてくるといったような信心。「ね」、例えば、強引に、願わんでも、頼まんでも、おかげを頂けれるというような信心。それには、とっても真の信心をさしてもらい、正しい信心から正しい喜びを受けさしてもらい、正しい喜びに、当然神様が下さらなければならんような、いわば、働きによって、頂けるところのおかげを、受けていくということ。もう、金光様のご信心はここに、あのう、定まった、極まった。この信心以外にゃない。いわゆる、実意丁寧神信心なんです。そういうようなことを他の宗教で聞いたことがないですね。実意丁寧神信心なんてことを。「ね」。私共は、人間らしい生き方を、しかもそれが、実意である。丁寧である。しかも、神様におすがりしてである。いわゆる、私共の、日常生活の中から、我が儘と思われるようなわがままを、徹底取り除かしてもらい。私共の、日々の生活の中から、横着と思われるようなものを、徹底して、私共が、心させてもらい、こういうような思い方、こういうようなあり方が、ま、神様からご覧になれば、人が見ても、横着に見えるのじゃなかろうかと、横着であってはならないと。もう、私共に、横着であろうと思われることが沢山あろうと思われます。「ね」。同時に私共の信心に、実意丁寧、実意丁寧を、言うておりますけれども、いわゆる、我が儘なところが、どれくらいあるやら分りません。ほんとに、ご地内をみだりにけなすなよと。とこう仰るがです。本当にご地内をみだりに怪我さんで済むような、「ね」、どんなに考えても、天地の神様をこうやって拝ませて頂いておる、この天地をです、とても汚しなんかは、されはしませんと、といったようないわば信心なのですねえ。コリを積ますな、コリを積むなと。といったような信心なんです。身を慎めと。しかも、そういうような信心なんです。「ね」。もう、そうなってくるときに、いわば、物腰から実意丁寧になってくるでしょうね。大柄な、人を見下げたような態度なんかは、とても出来ないでしょうねえ。ほんとに、ご地内をみだりに汚すようなことはとてもよう出来んでしょう。勿論、ですから人にコリを積ますようなこともない、そして、自分がコリを積むようなこともない。その、自分は、謹んだ謙虚な、姿なり、姿勢を持って、一切に当たっていけれるというような信心。教祖の神様の信心は、どこまでも、どこまでも、ここんところにあるようです。実意丁寧神信心。そこから生まれてくる、喜び、そこから頂けるところの神様へ近づかせていただく信心。「ね」。私共は、それを、晩霜的なとでも言うですかねえ。それが、出来ることのための荒行であり、それが出来るための私は、天地の御恩徳を、分らしてもらい。いわば、法則も勉強さしてもらい。信心の追及もさして頂こうというのでなからなければ、ならんのじゃないかとこう思うのですね。どうぞ、今日は、そういう意味で、神様の御悲願が、叶う日と言うてまで、椛目の信者一同に言うて下さる、この、13日という日をです。そういう実意丁寧を極めた、思いで今日という日を、頂きたいという風に感じます。どうぞ。